佃と言われても、どの地域かわからない方もいらっしゃるかもしれません。
東京に長く暮らしている方でも、地名も知らない方も多い地域です。
その一つの要因が、駅がないことです。
佃とはどんな街なのか、その特徴や歴史を見ていきましょう。

佃の特徴

佃は、あるアイテムと由縁が深い街です。
それは、江戸、東京の土産物として人気を集めた佃煮の発祥の地と言われているためです。
かつては、佃煮を手作りする製造所やお店が集まっていた場所でした。
今ではどうなっているのでしょうか。

今も残る下町情緒あふれる木造住宅街

佃は、東京都中央区という都心のアドレスを持ちながら下町風情が残る街です。
昔から残る木造住宅も見られ、小さな商店や飲食店なども点在しています。

老舗の佃煮店や工場

現在では少なくなったものの、古くから続く老舗の佃煮店や佃煮の製造工場も健在です。
全国的なメーカーになった佃煮屋さんは、別の場所に大きな工場を造って移転したケースもありますが、佃煮の名店は今もなお残っています。

街のランドマークにもなっている高層マンション

街のランドマークにもなっている高層マンション

佃という地域は知らなくても、リバーシティ21は知っている方もいるかもしれません。
大規模高層マンション群のことで、隅田川に囲まれた佃や新川、大川端河畔に官民共同都心型住宅として開発されたものです。
リバーシティ21は単独のマンションではなく、1つの街が形成されたようなエリアとなっています。
広大な敷地の中に庭園や歩道なども整備され、コンセプトや間取り、設備などが異なる複数のマンションが建設されています。
敷地内にはスーパーやクリーニング店、カフェ、レストラン、フィットネスジムなども連なっており、日常的な買い物や飲食、運動などはすべてリバーシティ21の中で済ませられる仕組みです。
中でも佃のアドレスを持つのが、2000年に竣工した地上43階の賃貸向け大規模タワーレジデンスのイーストタワーズとイーストタワーズ2です。
棟内にはラウンジや空中庭園、展望集会室やミーティングルームが備わり、居住者間のコミュニケーションも広がります。
間取りは1K、1DK、1LDK、2LDK、3LDKと幅広く、単身者からディンクス、子供のいるファミリーをはじめ、兄弟姉妹や友人などとシェアして住むことも可能です。
各住戸は床暖房や追い焚き機能付きバスなど人気の設備が完備されているので、快適な暮らしが送れます。

佃の歴史

現代の佃は、昔ながらの下町情緒あふれる街並みと、高層マンションという新旧が混在する地域になっています。
どのような歴史をたどってきたのでしょうか。

江戸時代の埋立地

佃は佃島と呼ばれ、もともとは隅田川河口にあった干潟を埋め立ててできた場所です。
埋め立てをして住み着いたのは、現在の大阪にあたる摂津国佃村の漁師です。
佃というと、江戸名物の佃煮が生まれた場所と言われることがありますが、そのルーツは実は大阪にありました。
1590年に摂津国佃村の漁師たちが、徳川家康の命を受け、江戸へと移り住んで作った街と言われています。
家康といえば、現在の静岡県にあたる駿府や名古屋の岡崎などに由縁がありますが、なぜ大阪の漁師たちを江戸に呼び寄せることになったのでしょうか。
家康が漁師たちを江戸に呼ぶ少し前の1582年6月2日に京都本能寺で織田信長が本能寺の変で命を落としました。
信長が明智光秀のクーデターで倒された際、家康はちょうど信長への挨拶をかねて関西に訪れ、信長が殺害された翌日に本能寺で会合を持つ予定でした。
信長との会合に備え、大阪の堺に滞在していた家康は、信長が殺されたことを知り、命の危険を覚えます。
家康も、150,000以上にものぼったと言われる明智光秀陣営のターゲットにされたためです。
堺からどうにか脱出しようとしても、界隈は川や海が広がり、行く手を阻まれます。
そんな時、淀川の中州に本拠を置いていた、地域の水路などに明るい摂津国佃村の漁師が家康を助け、岡崎城へとたどり着くことができたという逸話が残っています。

関東での食糧確保

関東での食糧確保

信長に代わって豊臣秀吉が天下をとると、家康は岡崎の所領を没収され、関東への移転を命じられました。
後に江戸幕府が開かれる江戸の地は、未開の地域です。
家康の手腕で街が発展し、人口がどんどん増えていきましたが、その一方で問題となったのが食糧の確保です。
増える人口に食糧の生産が追いついていませんでした。
当時の江戸湾には8ヶ所ほどの漁村がありましたが、当時の漁猟技術は低く、増える人口を賄えるだけの漁獲量もありませんでした。
そこで、脱出劇でお世話になった佃村の漁師のことを思い出します。
家康は、摂津国佃村の漁師33名を江戸に移住させることを決め、漁猟強化対策を行うことにしたのです。
こうした経緯で漁師たちが大阪からやってきて、隅田川河口の石川島南続きの干潟100間(約180m)四方の地を幕府から拝領します。
そこを、寛永年間(1622年~1644年)にかけて埋め立てを行い、佃島と命名して住み着いたのです。
さらに、佃島の漁師は11月から3月にかけて、将軍献上の白魚漁を命じられました。
一方で、隅田川上流の千住エリアから品川沖に至る広大な海上の漁業権も与えられたのです。
当時は江戸前の魚を獲り、新鮮な状態で江戸幕府への献上をはじめ、江戸の住民たちを養うために供給されていました。
その一方で、佃島という島生活で何か起こった時のために備える保存食として、魚介を甘辛く煮たものを作っていました。
それがいつの頃からか、ご飯のお伴や酒の肴にちょうどいいものがあると知られるようになり、江戸市中で売られるようになっていったのです。
これが佃煮の始まりで、佃の島で作られた江戸前の魚介類や海苔などを甘辛く煮詰めたものを指します。
佃煮が佃から生まれたことは知っていても、それが大阪の漁師によって始まったものとは知らない人も多いかもしれません。
その歴史を物語るものとして、佃の住吉神社があります。
住吉神社には家康の御霊が祀られ、水盤舎には佃漁師たちの漁猟情景が彫り上げられているからです。
実のところ、本能寺の変の後に家康を漁師たちが助けたという話は確かな文献記録がなく、逸話に過ぎないのですが、住吉神社を見ると、実際のエピソードではないかと感じることができます。

石川島からリバーシティへ

佃島の北側には石川島という埋立地がありました。
佃島ができた当時は100mほどの距離があったようですが、浅瀬を埋め立てることで、幕末にはほぼ陸続きになっていました。
石川島は、当時は軽犯罪者や浮浪者の厚生施設である人足寄場が置かれ、やがて石川島監獄署が置かれたのです。
ペリー来航によって、欧米列強への対抗に迫られた幕府が戦力を高めるために、水戸藩に造船所の設立を指示しました。
やがて海軍から、後の石川島播磨重工が譲り受け、戦後の昭和37年に至ると国内最大の造船所となった歴史を持ちます。
ですが、造船不況により工場が閉鎖され、隣接していた共同石油や三井建設倉庫も含めて売却されるに至りました。
この工場跡地が再開発されて、リバーシティ21になったのです。

佃の交通アクセス

佃は地名を冠する駅がありません。
最寄り駅は、隣町の都営大江戸線月島駅です。
駅がないせいか、知名度があまり高くない地域となっています。
なお、中央区のコミュニティバス江戸バスを使えば、晴海や豊洲、東銀座方面に出られます。

佃のオフィス賃料相場

坪単価は13,000円前後です。
佃は昔ながらの街並みと、大規模マンション群で形成される地域で、オフィスビルの供給量はあまり多くありません。
そのため、やや坪単価は高めになります。
もちろん、立地や築年数、広さ、利便性などによって異なりますので確認が必要です。

まとめ

佃は、家康が大阪の佃村から呼び寄せた漁師たちによって、埋め立てられ形成された地域です。
漁師が作り出した佃煮が名物となり、佃煮の発祥の地としても知られています。
駅がないものの、リバーシティ21という大規模マンション群の誕生で注目されています。

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