馬喰町は問屋街の近くで非常に便利である一方で、詳しく歴史や特徴について知らない方も多いのではないのでしょうか。
そこで今回は、馬喰町の特徴や歴史についてご紹介します。

馬喰町の特徴

馬喰町とは、いったいどのような地域なのでしょうか。
東京都中央区の日本橋に近く、都心の中心部に位置する街であり、古くから続く問屋街です。
ここでは、馬喰町の特徴を詳しく見ていきましょう。

問屋街としての馬喰町

馬喰町は江戸時代から続く問屋街であり、現在でも1500余りの卸商社や店舗が連なり、日本最大の問屋街といわれています。
問屋といっても、扱う商品はさまざまですが、馬喰町には衣料品やファッション雑貨などのアパレル系の卸商社や、生活雑貨や文具といった生活関連用品を扱う卸商社や店舗が多いです。
消費者のニーズや時代のトレンドに合わせた商品がタイムリーにそろうため、日本全国の小売店を中心に、幅広い得意先が仕入れにやってくる賑わいのある街です。
近年ではオンライン商談や通販などの需要も増し、卸商社や店舗が入っている建物もビル化しているので、かつてのような雰囲気はありませんが、今でも日本有数の問屋街として機能しています。

馬喰町の歴史

馬喰町という地名は、馬を喰うという字を書くので、一体どのような由来で町名がついたのか気になる方も多いのではないでしょうか。
ここからは馬喰町の名前がついた由来や、問屋街として発展することになった背景を見ていきましょう。

馬市が立つ場所

天正18年(1590年)、徳川家康が江戸へ入城する頃のことでした。
府中の馬市を、この地域で行うことが決まり、高木源兵衛が馬の売買や仲介を担う幕府博労頭として指名されました。
博労頭の高木源兵衛と富田半七が、この地に居住し、ここにあった馬場を管理することになったのです。
馬場は初音の馬場と呼ばれており、近くにあった初音稲荷から名をとったものでした。
博労頭が任命されて住み着き、馬場を管理したことから、この地域も博労町と呼ばれるようになりました。
ですが、正保年間(1645~1648年)に、馬喰町に改められた歴史があります。

初音の馬場は歴史上でも名を残しており、関ヶ原の戦いの前に家康が馬揃えをしたという言い伝えも残されています。
馬揃えとは、兵馬を一か所に集めて馬の検閲や演習を行う、出陣前の儀式です。
このように家康公も足を運んだかもしれない馬喰町ですが、その歴史を現在も見ることができます。
都営新宿線の馬喰横山駅構内には馬の像が設置され、馬のタイル画も飾られているので、地名の由来となった歴史に触れてみるのもおすすめです。

旅館業へのシフト

江戸時代の長期政権で戦が少なくなり、太平の世が続くと、兵馬への需要が低下し、馬場が縮小していきました。
そのため、初音の馬場もやがて火災延焼を防ぐための火除地とされ、何の建物も建たない広場のような形で明治時代まで残されていました。
一方、1657年に明暦の大火が起こった後には、馬喰町からもほど近い、現在の浅草橋のたもとに関東郡代の屋敷が設置されました。
すると、馬喰町には地方から訪ねてくる公事師と呼ばれる訴訟代理人が宿泊する旅籠屋が増えていきます。
さらに馬喰町の隣に位置する横山町は浅草御門に隣接した地域であったので、各地から江戸へと仕入れに訪れたり、売り込みにやってくる商人たちの出入りも盛んでした。
こうした全国から訪れる人たちの宿泊場所として、大小の旅籠が集まり、馬喰町と横山町エリアは江戸一番の旅館街として賑わいを見せていきました。

少しずつ問屋街へシフト

少しずつ問屋街へシフト

横山町では旅館に加えて、江戸土産を求める旅人のために小間物や化粧品、煙草、袋物などの店も増えていき、問屋に籠屋も加わって活況を呈していました。
泊まりながら仕入れをしたり、売り込みにくる商人が多かったので、江戸時代から明治時代にかけて、問屋街としてもどんどん発展していった歴史を持ちます。
馬喰町は明治時代に入っても、商人たちが宿泊する旅館街という江戸時代の面影が残っていました。
隣接する横山町の勢いがとどまらず、市区改正で浅草橋へ行く道が拡大されたのに伴い、横山町の問屋街が馬喰町まで伸びてきました。
こうした背景から、馬喰町は横山町とともに、東京を誇る老舗問屋街として発展を遂げていくことになります。
明治時代においても、馬喰町は横山町からの繊維問屋などの進出が増えながらも、東京では旅宿街として有名な地域でした。

問屋街への変貌

横山町からの問屋の進出を受けながらも、明治時代までは旅館街としての名声を誇っていた馬喰町ですが、大正3年に東京駅が開業すると様子が変わっていきます。
東京駅が東京の中心の駅となったことで、馬喰町の旅館が次第に減っていきました。
その代わりとして、問屋が店を出すようになります。
さらに関東大震災が起こり、残っていた旅館が倒壊、焼失すると、残った旅館は1つになったと言われています。
こうした背景から、横山町と馬喰町は一体的となって、繊維を主とした問屋街へと発展を遂げていきました。

震災後の問屋街と古い商習慣

関東大震災を経て復興を遂げた馬喰町と横山町の問屋街は、小間物を中心にした東京一の問屋街へと成長していきました。
この頃、同じ中央区にある日本橋や銀座の百貨店や商店では、洋風のショーウインドウを使って顧客に商品を飾って見せる陳列方式が採り入れられていきます。
陳列装飾と値札をつけた正札売りという、古い商習慣とは異なる新しい売り方に変わっていきました。
これに対して、馬喰町や横山町の問屋街では、古くからの習慣が踏襲されており、座売りが基本でした。
店で畳に座って客を待ち、客がやってくると欲しい商品などを確認して、見本箱を開いて見せて商談をしていたのです。
仕入れの方法も、従来通りの掛売りが主流でした。

現金安売りへのシフト

日本橋や銀座は一般消費者向けで、馬喰町や横山町の問屋街は業販だから商慣習が違うのは仕方ないと思われるかもしれません。
ですが、時代は変化していきます。
昭和初期に大不況が起こると、掛売りをすると、支払期日に払えない小売店が続出したのです。
掛売りすると代金の回収が見込めなくなるため、現金売りへシフトする問屋が増えていきました。
中には掛売りは一切しない現金問屋も現れ、現金安売り問屋という看板を掲げる問屋も増えていきました。
もっとも、掛売りが全く廃れたわけではなく、戦後の復興期には、再び、掛売り問屋も復活し、現在でも、現金売りと掛け売りが混在している形です。

馬喰町の交通アクセス

馬喰町の交通アクセス

馬喰町はJR総武線の馬喰町駅が使えるだけでなく、都営地下鉄新宿線の馬喰横山駅、都営地下鉄浅草線の東日本橋駅も最寄り駅として使えます。
これらの3路線は、連絡通路を通じて乗り換えもできるので便利です。
総武線を使えば、錦糸町をはじめ千葉方面へのアクセスもでき、東京・水道橋・飯田橋・新宿・中野・三鷹・高尾などへもダイレクトにアクセスできます。
都営新宿線を使えば、新宿の副都心までも一本で行けます。
都営浅草線は銀座や新橋をはじめ、五反田や品川、羽田空港や成田空港にも直通で行けるので、ビジネスシーンで活躍する路線です。

馬喰町のオフィス賃料相場

馬喰町の坪単価は、おおよそ12,000~14,000円前後です。
たとえば、110坪のオフィスで月額賃料131万円ほどが目安になります。
立地や駅からの距離、築年数によっても変動しますので、確認が必要です。

まとめ

馬喰町は江戸幕府の馬場が置かれたことから、その名前がつきました。
馬場がなくなった後は、東京有数の旅館街として栄えましたが、やがて、お隣の横山町とともに問屋街へとシフトしていきました。
現在でも、アパレルや生活用品の問屋が集結しています。
JR総武線の馬喰町駅に加え、都営新宿線の馬喰横山駅と都営浅草線の東日本橋駅も使えるのでビジネスシーンにも便利です。

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