八重洲というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。
新しいビルや昔ながらの隠れ屋的な飲食店がひしめくオフィス街といったイメージを持つ方も多いかもしれません。
今回は、賃貸オフィスをお探しの方に向けて、実際の八重洲はどんなところか、特徴や歴史を交えながらご紹介します。
目次
八重洲の特徴
東京駅には大きく八重洲口と丸の内口があります。
丸の内側には皇居をはじめ、日本の経済の中心地とも呼ばれる大手町などがあります。
一方、八重洲口は新幹線に乗り降りができる場所という駅の印象はあっても、駅を出て何があるのか、どんな地域なのか、知らない方も多いかもしれません。
ここからは、八重洲の特徴をご紹介します。
東京の玄関口であり全国への出発拠点
八重洲は東京駅の八重洲口方面から出た場所に広がるエリアです。
東京駅は美しいレンガ造りの駅舎がある丸の内側と、新幹線乗り場や高速バスの駅前ターミナルがある八重洲側に分けられます。
丸の内側は皇居をはじめ、大手町などもあるので知名度が高い一方、八重洲側は地域としてはあまりメジャーとはいえません。
しかし、新幹線や高速バスに乗れるので、東京から全国各地へと向かうのに便利な場所です。
八重洲地下街で有名
八重洲には東京駅の地下改札からつながる八重洲地下街があります。
日本最大級の地下街といわれており、広さは東京ドーム1.5個分、約180の店舗が建ち並ぶ場所です。
土産物店をはじめ、行列ができる人気の飲食店やカフェ、アパレルショップ、バラエティショップ、書店、郵便局など幅広いお店やサービスショップがそろっています。
東京を訪れる人たちが、新幹線などに乗る前に飲食を楽しんだり土産物を買ったりするだけでなく、近隣のオフィスに勤めるオフィスワーカーの飲食の場や買い物スポットになっています。
ランチタイムに同僚とランチを楽しみ、残り時間で買い物をしたり、郵便局などに立ち寄って用事を済ませたりすることが可能です。
業務後には洋服などを買ったり、友人や恋人と待ち合わせてディナーを楽しんだり、同僚と飲み会をしたりするなど、さまざまな用途に利用できます。
テレビ局のアンテナショップやキャラクターのショップなどもあり、東京に訪れる国内外からの観光客をはじめ、お子様連れにも人気です。
曜日や時間を問わず、多くの人が行きかう場所です。
便利なのに丸の内より緩やかなオフィス街
八重洲は丸の内側に比べると、新幹線乗り場や高速バス乗り場があるため、ビジネスパーソンには便利な地域に思えますが、大規模のオフィス街ではありません。
八重洲口のロータリーの前に、古くから建っていたヤンマーとダイヤ八重洲口ビルがあるほかは、中小のオフィスが入る雑居ビルのようなものがあるくらいです。
オフィスワーカーの胃袋を支える飲食店や、業後の憩いの場となる居酒屋が点在しているほか、八重洲駅前のビル隣には城東小学校もあり、子どもたちの声でにぎわっています。
丸の内側は再開発も進められ、大手町の大手企業の本社ビルも続々と超高層ビルへと生まれ変わっていきました。
一方の八重洲は後れをとりましたが、2000年以降になって、ようやく再開発が少しずつ進められています。
現在では、さまざまな企業が入る賃貸オフィスと飲食店や地下街からなる複合ビルが増えています。
八重洲の歴史
では、八重洲はどのような歴史をたどってきたのでしょうか。
八重洲の名前の由来とともに見ていきましょう。
八重洲の名前の由来
八重洲の地名は、オランダ人航海者「ヤン・ヨーステン」から由来しています。
ヤン・ヨーステンは、江戸時代初期の慶長5年(1600)に日本に漂着した後、徳川家康に気に入られて仕えることとなり、日本と世界を結ぶ朱印船貿易を推進した人物と伝えられています。
ヤン・ヨーステンの屋敷があったのが、現在の八重洲の地です。
ヤン・ヨーステンは当時、耶楊子(やようす)と日本名で呼ばれており、耶楊子から八代洲へ、そして八重洲の地名が付いたとされています。
なお、鎖国政策がされていた中でも、オランダが唯一貿易を許された国となったのも、ヤン・ヨーステンの影響と伝えられています。
東京駅の八重洲中央口からのびる八重洲通りには、日蘭修好380周年を記念して建てられたヤン・ヨーステンの記念碑が設置されているほか、八重洲地下街のキャラクターとしてヤン・ヨーステンをモチーフにした人物が登場するなど、八重洲では知られた人物です。
江戸時代から明治時代の八重洲
江戸時代の八重洲エリアには、桶町や元大工町、北紺屋町、南鍛冶町、呉服町などの町名がありました。
町名からうかがえるように、桶屋さんや大工、鍛冶職人、呉服屋などさまざまな職人や商人が集う地域だったのです。
このように職人や商人ごとの街が形成され、区分されていたのが特徴的といえます。
明治時代に入ると、日本橋川沿いに銀行や保険業、運送業などの新たな業態が少しずつ生まれていきます。
これに対して、当時の丸の内側は現在の皇居にあたる場所に徳川家が暮らす江戸城があり、そのお膝下にある丸の内一帯は、広大な大名屋敷が集まる武家地でした。
明治維新で江戸幕府が消滅すると、一時期は陸軍の施設や練兵場となりましたが、その後、民間に一括払いが下げられます。
最終的には三菱が一社で購入したため、三菱財閥主導で、現在の丸の内オフィス街の礎となるオフィス街が一手に形成されました。
職人や商人が暮らしていた小さな町の集まりだった八重洲と、丸の内の違いは現在に至るまで地域の特徴に影響しています。
東京駅の開業
東京駅が開業したのは、1914年(大正3年)のことです。
八重洲口ができたのは、そこから約15年経過した1929年(昭和4年)のことでした。
東京駅の開業当初は駅舎をはじめ、改札口も丸の内側にしかありませんでした。
そのため、当時から日本の起点として発展を遂げていた日本橋などに出るには、駅を大きく回って行かなくてはならず、遠回りだったのです。
そこで、ようやく八重洲口が開設されるに至りました。
東京駅の東側に八重洲口ができたことで、日本橋方面への利便性も高まり、八重洲周辺にも人があふれ、活気が出てきました。
しかし、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、八重洲も大きな被害を受けることになります。
その後震災の復興に向けて都市計画が見直され、八重洲の都市化が進むことになりました。
企業の事務所などが増え、次第に近代的な商業エリアへと成長を遂げていくのです。
戦後の復興
第二次世界大戦の空襲で被災した八重洲エリアですが、戦後の復興事業が進められていきます。
戦災で発生した瓦礫の処理のために外濠や京橋川が埋め立てられ、駅の拡張工事が推進されていきます。
戦後は丸の内のオフィスが一時期GHQに徴収されてしまったこともあり、多くの企業が八重洲に拠点を移転させました。
そのため、戦後の一時的ではありましたが、八重洲の地価が暴騰した歴史が残されています。
八重洲の交通アクセス
東京駅の八重洲口が使えます。
新幹線をはじめ、各方面へつながる特急やローカル線、山手線や京浜東北線など、幅広いJR線が使えるのが便利です。
丸の内口まで足をのばせば、東京メトロ丸の内線も使えます。
八重洲口のバスロータリーからは、千葉や茨城をはじめ、各地方へ向かう高速バスなども利用できます。
地方からの支社や営業拠点、サテライトオフィスを設けたい時や、出張などが多い事業のオフィスを構える場所として、八重洲は便利です。
八重洲のオフィス賃料相場
八重洲エリアの坪単価は20,000円前後~50,000円前後となっています。
新幹線の発着口や地方との連絡ができる高速バスのターミナルなどもあるエリアとあって、坪単価は高めです。
もちろん、立地や築年数、広さによって坪単価や賃料に差が出るので、確認が必要です。
まとめ
八重洲は徳川家康に寵愛され、オランダとの貿易の推進役となったヤン・ヨーステンの名前に由来して名づけられました。
丸の内側に比べてオフィス街化や再開発が遅れていた地域ですが、東京駅の新幹線乗り場や高速バス乗り場があり、便利な立地です。
現在では再開発も進み、オフィスを構えるのにも便利になっています。