銀座はひと昔前までは高級な街として知られていましたが、今は子どもや若者、家族連れのみならず、多くの海外からの旅行者が集まる賑わいのある街に進化を遂げています。
老舗店が集まる街から、海外ブランドや地方から出店するお店なども増え、変化を遂げてきた銀座の歴史や特徴についてご紹介します。

銀座の特徴

銀座は多くの人が集まる街ですが、いくつもの機能があります。
オフィス街として、商業地区として、ファッション地区やグルメ街としての機能を持ち、世代や国境の枠を超えて多くの人が集まります。

オフィス街としての銀座

銀座は買い物する場所、おいしいものを食べに行く場所、お酒を楽しみに行く場所といったイメージが大きいかもしれません。
ですが、オフィス街としての機能も持っています。
大通りに面したビルはショップや飲食店が多いですが、裏通りのビルはオフィスビルが多く、中小企業のオフィスや士業の事務所などが多く集まっています。
銀座アドレスがステータスとなり、顧客への信頼が高まるため、レンタルオフィスなども人気です。

商業地区としての銀座

銀座は古くより、ショッピングの街として賑わいを見せてきました。
大型の老舗百貨店と、和装洋品店やジュエリー、時計などの小さな老舗がひしめいており、昭和から平成にかけて高級なショッピング街として知られていました。
現在では、海外ブランドの旗艦店をはじめ、昔の銀座にはなかったファストファッションのお店や地方の物産店、ショッピングとグルメ、オフィスなどが集まる複合商業施設が増えています。
紳士淑女の大人の買い物の街から、家族連れや若者、海外からの旅行者など幅広い人が買い物を楽しめる街になっています。

ファッション地区としての銀座

かつては着物姿の紳士淑女が歩き、近代化が進むとモボやモガなど洋装、革靴にステッキ、ハイヒールのトレンドの最先端をいく人たちが歩いていました。
その後は、バブル期にはブランドに身を固めた華やかな人たちが歩いていた時代もあります。
バブルが弾け、銀座の街並みも変化が起き、今ではTシャツにジーンズといったカジュアルファッションで銀座を歩く人たちも増えてきました。
現代の銀座は和装から高級ブランド、ファストファッションに至るまで、さまざまなファッションの人が歩いているのも特徴的です。

グルメ街としての銀座

グルメ街としての銀座

銀座はグルメが楽しめる街としても、長い歴史を刻んできました。
近代化して洋食が入ってくると、全国に先駆けて洋食のレストランなどができたのも銀座です。
現在でも明治時代や大正時代、昭和初期などから続く、老舗の洋食店も残っています。
銀ぶらの拠点となった、おいしいコーヒーが楽しめる喫茶店が多く進出したのも特徴的です。
一方、マクドナルドの日本1号店ができたのも銀座であるなど、最新のファストフード店もありました。
バブル期には、フルコース料理などを楽しむ高級レストランが集まりました。
現在では銀座にお店を持つことがステータスとなり、地方からの進出や国内外のシェフやパティシエなどがお店を出すようになっています。
海外ブランドが高級レストランを出すなど、バリエーションも豊富です。
銀座のステータスを意識して出店するお店が多いので、多彩なグルメが楽しめるのも銀座の特徴です。

銀座の歴史

そもそも、銀座という名前はどこから生まれたのでしょうか。
ここからは、銀座の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代の銀座

銀座の地名の由来は、江戸時代に作られた銀座役所と言われています。
1603年に江戸幕府が開かれると、徳川家康が駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移し、新両替町と名付けました。
銀貨の鋳造を行う場所なので、銀座という通称が生まれ、それが地名として定着していきました。

明治期の西洋化

明治5年に大火が起こり、焼けた街を再生して防火性能が高い街にするために、明治政府によって街路整備計画と煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築が行われていきました。
火災の防止をキッカケに、西欧風のおしゃれな煉瓦街へと銀座が生まれ変わったのです。
政府予算の約27分の1という巨額の支出が投じられ、設計はイギリスの著名な建築家のトーマス・ジェームズ・ウォートルスが担当しました。
明治5年には横浜と新橋をつなぐ日本初の鉄道も開通しています。
銀座は新橋駅の目の前に広がる好立地であったため、西欧からの輸入商品や新しい商品が入りやすく、それらを扱うお店がどんどん増えていきました。
洋食レストランやパン屋、牛鍋屋をはじめ、カバン屋や時計商、洋服店、西洋家具店など、西洋風の街並みに合う洋風文化を扱うお店が進出したのです。
こうして銀座は、ほかにはない洋風の街並みを楽しむことやウィンドウショッピングを楽しむ街として賑わうようになりました。
やがて、銀座に行くこと自体が最新トレンドとなり、銀ぶらを楽しむようになっていきました。
銀ぶらの言葉は、大正4年~5年に生まれたと言われています。

関東大震災と復興

大正12年9月1日に発生した関東大震災で、銀座の煉瓦街は壊滅しました。
煉瓦の建物が倒壊したのに加え、街全域が火災で焼失しました。
復興期の銀座には、続々と百貨店が進出します。
最初にできたのが銀座松坂屋で、大正13年のことです。
有楽町駅や新橋駅との往復無料送迎バスを出すことや屋上にヒョウやライオンまでいる動物園を作るなど、今の時代を先駆けるような新たなサービスや人を呼び込むための施策も打ち出したのが特徴です。
大正14年には銀座松屋が開店し、中央に吹き抜けのあるおしゃれな店舗には、人を呼び込むための水族館も作られていました。
昭和5年になると、銀座三越が開店しました。
大型の百貨店の進出に当初は地元の老舗店は不安を持っていましたが、直ぐに百貨店と専門店の共存共栄という新たな銀座の街が築かれていったのです。
昭和4年には、不動産賃貸額が日本橋を抜いて全国一位になった歴史も持ちます。
全国的に銀座の名を知らしめました。
全国には○○銀座と呼ばれる商店街がありますが、東京の銀座にあやかろうと、この頃から広まっていったネーミングと言われています。
老舗の高級専門店と大型百貨店が集まるショッピング街として、日本一の座を獲得した銀座には喫茶店や小料理店、今でいうクラブを指すカフェーやバーも集まってきました。
昭和4年に行われた警察調査によれば、カフェーとバーの数は約600軒あったとされ、昭和初期に華やかな夜の街としての銀座も形成されていたことになります。

戦争と復興

戦争と復興

昭和20年1月27日を皮切りに、3月9日、10日、5月25日と空襲を受け、銀座はほぼ壊滅状態となりました。
米軍がわざと残したという噂も残されている時計台が特徴的な銀座のシンボル服部時計店と松屋デパートは残りましたが、戦後は接収されて米軍専用の売店となった歴史も持ちます。
戦後復興として、地下鉄工事が進められ、昭和32年に現在の銀座駅にあたる営団地下鉄丸ノ内線西銀座駅、昭和38年に都営地下鉄浅草線東銀座駅、昭和39年日比谷線銀座駅が開通するとともに、東銀座駅から西銀座駅までの地下道も作られました。
さらに、昭和45年8月2日には、銀座通りで初めての歩行者天国が実施されるなど、多くの買い物客で賑わう街になりました。

バブル期の銀座

バブル期の銀座は、夜には高級クラブ街を中心にタクシーの行列ができたり、高級レストランで食事を楽しんだり、ブランドものやジュエリーなどを買い求める人たちであふれました。
一方、老舗店などに代えて銀座通りに銀行、証券会社などの金融機関が出店し、昼間の街の様子が様変わりします。
もっとも、バブルが弾けて金融機関が撤退すると、今度は海外の高級ブランド店が続々と旗艦店をオープンさせました。
最初は海外ブランド店に銀座の街や文化が変えられてしまうのではと不安視されていましたが、銀座らしいものを大切にするという紳士協定のもと、共存共栄が実現しています。
長い不況が続く中、人々の意識が安売りに移ると、銀座にもファストファッションの旗艦店が進出するなど変化も起きました。
また、国内外から買い物客が訪れる銀座で知名度を上げたいと、地方の物産店も多く見られます。
さらに現在では、大型スーパーができることや100円ショップも進出するなど、なんでも揃う街へと変化を遂げつつあります。

銀座の交通アクセス

銀座へは、JR線の山手線や京浜東北線で有楽町駅、新橋駅からアクセスできます。
少し歩きますが東京駅ともつながっています。
地下鉄も複数通っており、東京メトロの銀座線、丸ノ内線、日比谷線の銀座駅、日比谷線の東銀座駅、有楽町線の銀座一丁目駅なども使えるので、どこに行くにも便利です。
都営浅草線の東銀座駅も利用でき、羽田空港や成田空港へのアクセスも良好で、出張などもしやすいです。

銀座のオフィス賃料相場

坪単価は3万円前後~4万円前後です。
たとえば、15坪のオフィスで月額賃料48万円、50坪で110万円程度が目安になります。
立地や築年数によっても変動しますので、確認が必要です。

まとめ

銀座はショッピングやグルメの街だけでなく、オフィス街としても人気です。
古い時代から不動産賃貸料が高い、ステータスのある街であることは、今でも変わりありません。

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