八丁堀は、駅の乗り換えなどで利用している方も多いかもしれません。
東京駅にも日本橋エリアにも近く、便利な立地です。
今回は八丁堀の特徴や歴史、名前の由来などについて紹介します。

八丁堀の特徴

八丁堀はどのような地域なのでしょうか。
現在の雰囲気や街の様子、使い勝手などを見ていきましょう。

東京駅から近いオフィス街

東京駅から近いオフィス街

八丁堀がどの辺りに位置しているか、ご存じでしょうか。
八丁堀の駅を電車で乗り降りしているとわかりにくいですが、東京駅の八重洲口から真っすぐ歩くと、10分かからず、八丁堀エリアに到達します。
つまり、東京駅まで徒歩圏内にあり、その先の丸の内や大手町の経済の中心地であるオフィス街ともすぐ近くです。
八丁堀駅を使わなくても、徒歩で東京駅まで行き、新幹線にも乗れます。
出張にも便利で、ビジネスをする方にはうってつけのエリアです。
東京駅から中高層のビルが建ち並んでおり、八丁堀エリアには中小企業のオフィスをはじめ、税理士や弁護士、会計士などの士業の事務所も多いのが特徴といえます。

実はマンションも多い

東京駅から近く、ビル群が多いため、居住エリアではないように思えますが、近年ではマンションも増えています。
高級賃貸マンションが多く、便利な場所で都会暮らしをしたい方を中心に人気があります。
1階が24時間スーパーになっているなど、都心でも不便なく暮らせるように配慮されたマンションも少なくありません。

路地に入ると飲食店

大通りに面するビル群は、1階にコンビニなどがあるビルやマンションが多いですが、その路地に入っていくと飲食店や居酒屋などもあります。
オフィスワーカーの胃袋を満たし、業後のリフレッシュができる場所もそろっています。

千葉方面に出やすい

八丁堀は京葉線が通っているので、有名な遊園地がある舞浜にもアクセスができます。
また、勝浦や鴨川などへの特急に乗るなら、東京駅から乗るより、八丁堀から乗ったほうが楽です。
東京駅のホームが地下奥深くにあるので、八丁堀から乗るほうがスムーズです。

八丁堀の歴史

八丁堀はどのような歴史を持つ街なのでしょうか。
八丁堀という町名がついた背景などもひも解いていきましょう。

八丁堀の地名がついた理由

江戸時代初期の慶長17年(1612年)、このエリアに堀が開削されました。
その堀の長さが八町、今でいうと873mほどあったことから、八丁堀と呼ぶようになったといわれています。
つまり、その地域に作られた八丁ほどの長さの堀が地名の由来です。
八丁堀は三ツ橋の十字合流地点から亀島川へと注ぎ、隅田川に通じる船入運河として開削されたとされています。

警察や司法の拠点

警察や司法の拠点

時代劇が好きな方なら、ドラマの中に八丁堀の地名が出てくることをご存じかもしれません。
八丁堀の地には、江戸時代に江戸町奉行所の与力、同心の組屋敷が集中していました。
与力とは江戸時代における裁きを行う司法を担い、同心はその部下の位置づけで、今でいう警察官のような人たちです。
時代劇の中で「お奉行様」などと呼ばれているのが与力で「御用だ。御用だ。」と十手を掲げて駆け回っているのが同心といえます。
与力や同心の組屋敷が八丁堀にあったため、江戸時代に八丁堀といえば、警察のことを指すほど地名が伝わっていました。
与力や同心は、江戸時代に治安維持や犯罪などの取り締まりを担当した武士の役職で、独特のまげと着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房がカッコよく、当時の江戸の人たちの憧れの存在であったともいわれています。
与力は徳川家の直臣にあたり、同心はその配下の侍衆ですので、江戸の人たちからは信頼が厚く、庶民の味方として人気を得ていたのです。
その当時、与力、江戸の火消しの頭と力士は「江戸の三男」と呼ばれるほど人気の存在でした。

与力・同心組屋敷としての八丁堀

江戸初期に開削が行われ、埋め立てられた八丁堀の地は、最初は寺町だったとされています。
寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残し、それ以外の多くの寺が郊外へと移転させられ、与力・同心組屋敷が置かれたという歴史があります。
当初は江戸町奉行板倉勝重の配下として馬上が許された与力10騎と同心50人からスタートし、時代劇にもよく名前が出てくる南北両町奉行ができると、与力50騎、同心280人へと増えていきました。
組屋敷は、与力は知行200石、馬一頭、槍一本、屋敷は300~500坪ほどを与えられ、同心は30俵2人扶持で、100坪ほどの屋敷地が与えられたという記録が残されています。
時代劇に登場する岡ツ引とは、同心を助ける、サポーターのことです。
その数は約400人、さらにその子分である下ツ引を合わせ、1,000人余りの警察担当者が江戸の治安を守っていたことになります。
与力・同心は月番勤務を命じられ、八丁堀の組屋敷の住居から町奉行所に出勤して、江戸の治安維持にあたりました。
知行200石を与えられると殿様と呼ばれる身分でしたが、与力は同心ともに八丁堀の旦那と呼ばれて、庶民たちに親しまれていました。
与力や同心の妻たちも、夫の不在中に庶民が助けなどを求めてやってくると、適切な対応を行っていたため、信頼が厚く、奥様と敬称で呼ばれていたとのことです。

八丁堀から桜川に

明治時代に入ると、八丁堀は桜川と呼ばれるようになります。
掘が川に改称されたのは、八丁堀が楓川とつながっていたためです。
楓は秋の風物詩であり、その隣の堀は春の桜が良いとのことで、桜川になったという由緒があります。
大正時代に関東大震災が起こると、その復興事業を通じて、桜川には新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋の5つの橋が架けられています。
この水路は戦後まで利用されていましたが、昭和35年(1960年)頃から段階的に埋め立て工事がはじまりました。
そして、昭和44年(1969年)には残念ながら姿を消しています。
そのため、現在では地名の由来となった八丁堀、改め桜川はありません。
現在、埋め立てられた跡地は桜川公園になっています。
桜川公園は子どもが遊べる滑り台やブランコ、鉄棒や砂場などの遊具をはじめ、大人の健康をサポートする足ツボのこみちなども整備されています。
八丁堀を埋め立てた一部だけあり、とても広々とした公園で、水飲み場や男女別トイレ、多目的トイレも整備されており、使いやすい公園です。
ベンチなども完備されていて、近くのオフィスワーカーが息抜きをしたり、天気が良い日にはお弁当などを食べていたりする姿も見られます。

八丁堀の交通アクセス

八丁堀の交通アクセス

八丁堀駅はJR京葉線と東京メトロ日比谷線の2路線が使えます。
京葉線を使えば東京駅をはじめ、千葉方面へとスムーズにアクセスができます。
千葉エリアへの営業が多い場合には、特急などにも乗れるので便利です。
日比谷線は神奈川の日吉方面から、東京の北千住などを超えて、埼玉県や栃木県までつながっている長い路線です。
都心部では上野や茅場町、銀座、六本木などへもアクセスしやすいので、さまざまなビジネスシーンで活用できます。

八丁堀のオフィス賃料相場

坪単価は15,000円前後~18,000円前後です。
たとえば、15坪で月額賃料22万円、30坪のオフィスで月額賃料45万円程度が目安になります。
立地や最寄り駅、駅からの距離、築年数によっても変動しますので、確認が必要です。

まとめ

八丁堀は八丁の堀があったことから地名がつきました。
江戸時代には江戸の治安を担う与力や同心の組屋敷が置かれ、時代劇にも、地名がしばしば登場します。
東京駅から徒歩圏内にあり、千葉方面へのアクセスもしやすいので、ビジネスにも便利です。

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