蒲田(かまた)は東京都大田区にある街です。

「蒲田行進曲」の名前は知っていても、どこにあり、どんな歴史を持つ街なのかまでは意外と知られていません。

この記事では、蒲田の地名の由来から、菖蒲園がきっかけで駅が生まれた経緯、”キネマの天地”と呼ばれた映画の街だった時代、そしてものづくりの街への変貌までを解説します。

蒲田とは?基礎情報まとめ

蒲田は、東京都大田区の南部に位置する地区です。

JR蒲田駅・京急蒲田駅を中心とした一帯を指し、大田区役所本庁舎も蒲田五丁目に置かれています。

項目内容
読み方かまた
所在地東京都大田区(区の南部)
主な駅JR蒲田駅(京浜東北線)
東急池上線・東急多摩川線
京急蒲田駅(京急本線・空港線)
地名の由来「蒲(がま)」が生えた田、「泥深い田」など諸説あり
かつての行政区蒲田区(1932年~1947年)※現在は大田区
街を象徴するもの蒲田行進曲、羽根付き餃子、黒湯温泉、町工場

参考:大田区公式「大田区のプロフィール」

蒲田の地名の由来は?

蒲田という地名の由来には諸説あり、定説は確立されていません。

ただし、いずれの説も「水辺の低湿地」という土地の性質に結びついている点は共通しています。

蒲田は平安時代の辞書『和名抄(和名類聚抄)』に「加万太」として記録が残るほど古い地名で、かつては「鎌田」とも表記されました。

「蒲が生えた田」から来たとする説

最も広く知られているのが、水辺に生える植物「蒲(がま)」が多く自生していた田んぼに由来するという説です。

『精選版 日本国語大辞典』も、蒲が多かったために名づけられたという説を挙げています。

「泥深い田」から来たとする説

もう一つ有力なのが、「泥深い田」を意味する言葉に由来するという説です。

この説では「鎌田」という表記が用いられた背景も説明されます。

蒲田一帯は多摩川下流の低湿な三角州上にあり、こうした地形が地名に関係していると考えられています。

なお、アイヌ語に由来するとする説も紹介されることがありますが、裏づけは限定的です。

「蒲田区」から「大田区」になるまで

かつて蒲田は、区の名前でもありました。

1932年(昭和7年)、当時の東京市に周辺の郡町村が編入された際、矢口町・蒲田町・六郷町・羽田町の4町が「蒲田区」となります。

そして1947年(昭和22年)3月15日、蒲田区は大森区と合併して現在の「大田区」が誕生しました。

区名は「大森」と「蒲田」から一字ずつを取ったもので、「太田区」は誤記です。

蒲田の歴史年表

蒲田がたどった変遷を、時系列で整理します。

出来事
1901年(明治34年)京浜電気鉄道(現・京急)の「蒲田駅」開業。現在の京急蒲田駅
1902年(明治35年)現在の区立蒲田小学校付近に「蒲田菖蒲園」が開設される
1904年(明治37年)官設鉄道(現・JR)の蒲田駅が開業
1914年(大正3年)黒澤貞次郎が約2万坪の工場用地取得を開始(のちの「吾等が村」)
1920年(大正9年)松竹キネマ蒲田撮影所が開所
1922年(大正11年)池上電気鉄道(現・東急池上線)が乗り入れ/蒲田駅西口駅舎が開設
1923年(大正12年)目黒蒲田電鉄目蒲線(現・東急多摩川線)が乗り入れ
1929年(昭和4年)映画『親父とその子』公開、主題歌『蒲田行進曲』が生まれる
1932年(昭和7年) 蒲田町ほか4町が合併し「蒲田区」が誕生
1936年(昭和11年)松竹蒲田撮影所が大船へ移転
1947年(昭和22年)蒲田区と大森区が合併し「大田区」が誕生

菖蒲園がつくった街──蒲田駅開業の物語

現在は大田区随一の繁華街となっている蒲田駅周辺ですが、明治期までは一面の農村地帯でした。

その農村に駅ができたきっかけは、意外にも一つの花の名所です。

先に開業したのは京急蒲田駅だった

「蒲田駅」を名乗る駅が最初にできたのは、実はJRではなく京急のほうです。京急蒲田駅は1901年(明治34年)2月1日に「蒲田」として開業しており、JRの蒲田駅より3年早く誕生しました。

その後、1925年(大正14年)11月に「京浜蒲田」、1987年(昭和62年)6月1日に現在の「京急蒲田」へと改称されています。羽田空港へ向かう空港線の前身も、1902年(明治35年)開通の羽田支線までさかのぼります。

参考:京浜急行電鉄 公式「京急蒲田駅」

蒲田菖蒲園が駅を呼び込んだ

1902年(明治35年)、現在の大田区立蒲田小学校付近に「蒲田菖蒲園」が開設されました。

開設したのは、花き輸出を手がけていた横浜植木商会(現・横浜植木株式会社)で、輸出用の花菖蒲を栽培するための園でした。

この菖蒲園が行楽地として人気を集めたことが追い風となり、駅設置を求める地元の要望が実を結びます。

こうして1904年(明治37年)4月、現在のJR蒲田駅が開業しました。

菖蒲園そのものは大正期に閉園しましたが、呑川に架かる「菖蒲橋」の名にその記憶が残されています。

参考:大田区公式「まちなみ 16:蒲田東」

キネマの天地・蒲田──松竹蒲田撮影所と『蒲田行進曲』

蒲田の歴史を語るうえで欠かせないのが、大正から昭和初期にかけて「キネマの天地」と呼ばれた映画の街としての時代です。

16年間で1,200本以上を生んだ松竹蒲田撮影所

松竹キネマ蒲田撮影所は、1920年(大正9年)に蒲田駅東口近くに開所しました。

大船へ移転するまでの16年間で、1,200本以上の映画を世に送り出したとされます。

当時の蒲田には俳優や映画関係者が数多く住み、「流行は蒲田から」と言われるほどの活気と華やかさを誇りました。

この時代の空気は、のちに「モダン蒲田」「蒲田モダン」と呼ばれています。

ここで腕を磨いた映画人も少なくありません。

小津安二郎は1923年(大正12年)に撮影助手として蒲田撮影所に入社し、1927年に監督デビューを果たしました。

女優の高峰秀子も、1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所の『母』で子役デビューしています。

参考:大田区公式「松竹キネマ撮影所跡」

参考:国立国会図書館「近代日本人の肖像 小津安二郎」

『蒲田行進曲』とはどんな曲?

『蒲田行進曲』は、1929年(昭和4年)公開の松竹映画『親父とその子』(五所平之助監督)の主題歌として発表された曲です。

原曲はアメリカのオペレッタの劇中歌「Song of the Vagabonds(放浪者の歌)」で、これに堀内敬三が日本語の詞をつけました。

川崎豊と曽我直子のデュエットによるレコードがコロムビアから発売され、松竹蒲田撮影所の”所歌”のように親しまれます。

1982年公開の同名映画でも使われ、改めて広く知られるようになりました。

現在も、JR蒲田駅ではこの曲が流れています。街を歩けば耳にできる、生きた歴史といえます。

参考:松竹 公式「松竹の映画製作の歴史 Part11」

撮影所跡地は「大田区民ホール・アプリコ」

松竹蒲田撮影所は、1936年(昭和11年)に神奈川県の大船へ移転しました。

その跡地に建っているのが、現在の大田区民ホール・アプリコです。

敷地内には、1986年制作の映画『キネマの天地』で使用された「松竹橋」(撮影所前に架かっていた橋を再現したもの)が残されています。

JR蒲田駅東口から徒歩約3分と、気軽に立ち寄れる距離です。

参考:大田区民ホール・アプリコ 公式「交通・アクセス」

蒲田といえば?街を象徴する3つのもの

蒲田駅開業の歴史

歴史を踏まえたうえで、「蒲田といえば」と聞かれたときに挙がる代表的なものを整理します。

象徴するもの概要歴史との繋がり
蒲田行進曲1929年の松竹映画主題歌。現在もJR蒲田駅で流れる松竹蒲田撮影所があった「キネマの天地」時代の名残
羽根つき餃子1983年創業の「你好(ニイハオ)」で生まれたとされる蒲田名物。周辺に餃子店が集まる町工場や繁華街で働く人々の食文化として広がった
黒湯温泉(銭湯)黒褐色の天然温泉。大田区は都内で最も銭湯が多い工場労働者の疲れを癒す場として銭湯文化が定着

蒲田の商業施設や公園、銭湯などの具体的なスポットについては、「蒲田の周辺施設についてご紹介」で詳しく紹介しています。

オフィスを構える街としての蒲田

菖蒲園の街、映画の街、ものづくりの街——と姿を変えてきた蒲田は、現在ビジネス拠点としても選ばれる街になっています。

歴史の延長線上にある「働く街」としての特徴を見ていきましょう。

3路線+京急で都心・横浜・羽田をつなぐ

JR蒲田駅にはJR京浜東北線、東急池上線、東急多摩川線の3路線が乗り入れています。

京浜東北線を使えば品川・新橋・東京といったオフィス街や主要ターミナルへ乗り換えなしで移動でき、横浜方面へは5駅でアクセスできます。

さらに、徒歩圏にある京急蒲田駅からは京急空港線で羽田空港へ乗り換えなしで向かえます。

出張が多い企業や、地方・海外の取引先を持つ企業にとって、この空港アクセスは実務上の大きな利点です。

ものづくり集積と区の中心機能が集まる街

蒲田駅周辺には大田区役所や大田区産業プラザ(PiO)といった公共施設が集まり、区の中心的な機能を担っています。

製造業の集積地であることから、取引先や協力工場との距離が近いことも、この街ならではの条件といえます。

また、蒲田駅周辺には飲食店や商店街が密集しており、来客対応や社内の懇親の場に困ることがありません。

呑川沿いには桜が植えられ、働く環境として落ち着いた側面も併せ持ちます。

なお、オフィス賃料の水準は、物件の立地・規模・築年数・設備によって大きく変動します。

最新の空室状況と条件は、下記の物件ページからご確認ください。

【蒲田】の賃貸オフィスはこちらから。

【蒲田駅】の賃貸オフィスはこちらから。

蒲田の歴史に関するよくある質問(FAQ)

Q. 蒲田は何区にありますか?

A. 東京都大田区です。大田区役所の本庁舎も蒲田五丁目に置かれています。

Q. 「蒲田区」は今もありますか?

A. 現在は存在しません。蒲田区は1932年に誕生し、1947年3月15日に大森区と合併して大田区になりました。

Q. 蒲田の地名の由来は?

A. 諸説あり定説はありません。「蒲(がま)」が生えた田とする説、「泥深い田」に由来するとする説などが知られています。

Q. 蒲田行進曲とはどんな曲ですか?

A. 1929年公開の松竹映画『親父とその子』の主題歌です。原曲は海外のオペレッタの劇中歌で、堀内敬三が日本語詞をつけました。現在もJR蒲田駅で流れています。

Q. 松竹蒲田撮影所の跡地は今どうなっていますか?

A. 大田区民ホール・アプリコが建っています。敷地内には映画『キネマの天地』で使われた「松竹橋」が残されています。

Q. JRの蒲田駅と京急蒲田駅は同じ駅ですか?

A. 別の駅です。両駅は徒歩圏にありますが直接つながってはおらず、乗り換えには徒歩移動が必要です。なお、先に開業したのは京急蒲田駅(1901年)のほうです。

Q. 蒲田名物の羽根つき餃子はいつからありますか?

A. 1983年創業の「你好(ニイハオ)」で生まれたとされています。その後、周辺に同様の餃子を出す店が広がり、餃子の街として知られるようになりました。

まとめ

蒲田は、低湿な田んぼを示す地名から始まり、菖蒲園が駅を呼び込み、「キネマの天地」として映画文化を育て、ものづくりの街へと姿を変えてきました。

街の表情が幾度も塗り替えられてきたことこそが、蒲田の歴史の特徴といえます。

その積み重ねは、都心・横浜・羽田をつなぐ交通利便性と、産業集積という形で今も残っています。

オフィスの拠点として蒲田を検討される際は、こうした街の性格もあわせてご覧ください。